挪威1

僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつ(陰鬱)な絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。

 飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの 『ノルウェイの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。



 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとしていた。やがてドイツ人のスチュワーデスがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊いた。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。



「本当に大丈夫?」



「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。スチュワーデスはにっこりと笑って行ってしまい音楽はビリー?ジョエルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。



 飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。



 前と同じスチュワーデスがやってきて、僕の隣りに腰を下ろし、もう大丈夫かと訊ねた。



「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから(It’s all right now. Thank you. I only felt lonely, you know.)」と僕は言って微笑んだ。



 「Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you mean.(そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります)」彼女はそう言って首を振り、席から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。「I hope you’ll have a nice trip. Auf Wiedersehen!(よい御旅行を。さようなら)」



 「Auf Wiedersehen!」と僕も言った。







 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮かな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。まるで別の世界の入口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声だった。その他にはどんな物音もなかった。どんな物音も我々の耳には届かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。まっ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくのを見かけただけだった。歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。







 記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。



 でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。



 もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小さな冷たい手や、さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ下にある小さなホクロや、冬になるとよく着ていた上品なキャメルのコートや、いつも相手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)や、そんなイメージをひとつひとつ積みかさねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。まず横顔が浮かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いていたせいだろう。だから僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔なのだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首をかしげ、話しかけ、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。



 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではあるけれど、それは真実なのだ。最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくやがては夕闇の中に吸いこまれてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのかというその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がするだけだ。そしてその音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局は消えてしまったように。しかしハンブルク空港のルフトハンザ機の中で、彼らはいつもより長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できないというタイプの人間なのだ。







 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ?



 そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が本当に存在したのかどうか、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しないイメージなり記号であったのかもしれない――あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事物と同じように。でも直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕ほその井戸の姿なしには草原の風景を思いだすことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。僕はその井戸の様子を細かく描写することだってできる。井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メートルばかりの暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少し高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雨にさらされて奇妙な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちている。小さな緑色のトカゲがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の中をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が――世の中のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒が――つまっている。



 「それは本当に――本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女はときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあることは確かなんだけれど」



 彼女はそう言うとツイードの上着のポケットに両手をつっこんだまま僕の顔を見て本当よという風ににっこりと微笑んだ。



 「でもそれじゃ危くってしようがないだろう」と僕は言った。「どこかに深い井戸がある、でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもないじゃない か」



 「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それでおしまいだもの」



 「そういうのは実際には起こらないの?」



 「ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急にいなくなっちゃって、どれだけ捜してもみつからないの。そうするとこのへんの人は言うの、あれは野井戸に落っこちたんだって」



 「あまり良い死に方じゃなさそうだね」と僕は言った。



 「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払って落とした。「そのまま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらいですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」



 「考えただけで身の毛がよだった」と僕が言った。「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」



 「でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ駄目よ」



 「離れないよ」



 直子はポケットから左手を出して僕の手を握った。「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの」



 「絶対に?」



 「絶対に」



 「どうしてそんなことがわかるの?」



 「私にはわかるのよ。ただわかるの」直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。そしてしばらく黙って歩きつづけた。「その手のことって私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」



 「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。



 「それ――本気で言ってるの?」



 「もちろん本気だ」



 直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面から、僕の目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方ではまっ黒な重い液体が不思議な図形の渦を描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから彼女は背のびをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつまってしまうくらいあたたかくて素敵な仕草だった。



 「ありがとう」と直子は言った。



 「どういたしまして」と僕は言った。



 「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微笑しながら言った。「でもそれはできないのよ」



 「どうして?」



 「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは――」と言いかけて直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな思いが彼女の頭の中でぐるぐるとまわっていることがわかっていたので、僕も口をはさまずにそのとなりを黙って歩いた。



 「それは――正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあとで彼女はそうつづけた。



 「どんな風に正しくないんだろう?」と僕は静かな声で訊ねてみた。



 「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。ねえ、もしよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あなたは会社につとめるわね。するとあなたが会社に行ってるあいだいったい誰が私を守ってくれるの?あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの? ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう? そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だったんだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」



 「これが一生つづくわけじゃないんだ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言った。「いつか終る。終ったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。これからどうしようかってね。そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは収支決算表を睨んで生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そうだろ?どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩のカを抜きなよ。肩にカが入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩のカを抜けばもっと体が軽くなるよ」



 「どうしてそんなこと言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。



 彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。



 「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩のカを抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」



 僕は黙っていた。



「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱していて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」



 我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終りに死んだ蝉の死骸がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でばりばりという音を立てた。僕と直子はまるで探しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。



 「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度か首を振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」



 「たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う」と僕は言った。「僕は頭の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」



 僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。直子は上着のポケットに両手をつっこんで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。



 「ねえワタナベ君、私のこと好き?」



 「もちろん」と僕は答えた。



 「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」



 「みっつ聞くよ」



 直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってほしいの。とても嬉しいし、とても――救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」



 「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは?」



 「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」



 「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。



 彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の声が聞こえたが、それは前よりいくぶん我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように盛りあがったところを上り、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。僕はその二、三歩あとをついて歩いた。



 「こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背中に声をかけた。



 直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は残りの道を二人で並んで歩いた。



 「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声で訊ねた。



 「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」







*







 それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。こうして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕はときどきひどく不安な気持になってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべき暗い場所があって、大事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか、と。



 しかし何はともあれ、今のところはそれが僕の手に入れられるものの全てなのだ。既に薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかりと胸に抱きかかえ、骨でもしゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけている。直子との約束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。



 もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ―と僕は思う――文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。何故彼女が僕に向って「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうということを。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。



 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人暮しをするのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。

 その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は少くとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。



 コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。開け放しになった窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。



 舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つ目の寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑の芝生の中ではスプリンクラーが太陽の光を反射させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカーの兼用グラウンドとテニス?コートが六面ある。至れり尽せりだ。



 この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、その運営方針は――もちろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」、これがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるし、売名行為だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりくちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがあるんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうというのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトップ?エリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく知らないけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いており、そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正しくてどれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説は「とにかくここはうさん臭いんだ」という点で共通していた。



 いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。



 寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れる。スポーツ?ニュースからマーチが切り離せないように、国旗掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになっている。



 国旗を掲揚するのは東棟(僕の入っている寮だ)の寮長の役目だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名前も知らないし、どの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸をあげるわけだ。



 僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろん、学生服に黒の皮靴、中野学校はジャンパーに白の運動靴という格好である。学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はソニーのポータブル?テープレコーダーを下げている。中野学校がテープレコーダーを掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がロープに旗をつける。学生服がテープレコーダーのスイッチを押す。



 君が代。



 そして旗がするするとポールを上っていく。



 「さざれ石のお――」というあたりで旗はポールのまん中あたり、「まあで――」というところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をしゃんとのばして(気をつけ)の姿勢をとり、国旗をまっすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていれば、これはなかなかの光景である。



 夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれる。ただし順序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降り、桐の箱の中に収まる。夜には国旗は翻らない。



 どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわからなかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いている人だって沢山いる。線路工夫やタクシーの運転手やバーのホステスや夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働く人々が国家の庇護を受けることができないというのは、どうも不公平であるような気がした。でもそんなのは本当はそれほどたいしたことではないのかもしれない。誰もたぶんそんなことは気にもとめないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。



 寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう少し細長くしたくらいの広さで、つきあたりの壁にアルミ枠の窓がついていて、窓の前に背中あわせに勉強できるように机と椅子がセットされている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。机とベッドの他にはロッカーがふたつ、小さなコーヒー?テーブルがひとつ、それに作りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなかった。大抵の部屋の棚にはトランジスタ?ラジオとヘア?ドライヤーと電気ポットと電熱器とインスタント?コーヒーとティー?バッグと角砂糖とインスタント?ラーメンを作るための鍋と簡単な食器がいくつか並んでいる。しっくいの壁には「平凡パンチ」のビンナップか、どこかからはがしてきたポルノ映画のポスターが貼ってある。中には冗談で豚の交尾の写真を貼っているものもいたが、そういうのは例外中の例外で、殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の女か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や辞書や小説なんかが並んでいた。



 男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかびのはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻が十センチもつもっていて、それがくすぶるとコーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだから、むっとするすえた匂いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところにわけのわからないものがこびりついているし、床にはインスタント?ラーメンのセロファン?ラップやらビールの空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めてちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が吹くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂いが漂っている。部屋によってその匂いは少しずつ違っているが、匂いを構成するものはまったく同じである。汗と体臭とごみだ。みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放りこんでおくし、定期的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そんなカオスの中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。



 でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だった。床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に一回は洗濯された。僕の同居人が病的なまでに清潔好きだったからだ。僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。「あれ異常性格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。



 僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアムステルダムの運河の写真が貼ってあった。僕がヌード写真を貼ると「ねえ、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、かわりに運河の写真を貼ったのだ。僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。僕の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て「なんだ、これ?」と言った。「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」と僕は言った。冗談のつもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそうなのかもしれないと思うようになった。



 みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。こちらが身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。掃除は全部彼がやってくれたし、布団も彼が干してくれたし、ゴミも彼がかたづけてくれた。僕が忙しくて三日風呂に入らないとくんくん匂いをかいでから入った方がいいと忠告してくれたし、そろそろ床屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言ってくれた。困るのは虫が一匹でもいると部屋の中に殺虫スプレーをまきちらすことで、そういうとき僕は隣室のカオスの中に退避せざるを得なかった。



 突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。



 「僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。



 「地図が好きなの?」と僕は訊いてみた。



 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ」



 なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあらためて感心した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。たしかに地図づくりに興味を抱き熱意を持った人間が少しくらいいないことには――あまりいっぱいいる必要もないだろうけれど――それは困ったことになってしまう。しかし「地図」という言葉を口にするたびにどもってしまう人間が国土地理院に入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。彼は場合によってどもったりどもらなかったりしたが、「地図」という言葉が出てくると百パーセント確実にどもった。



 「き、君は何を専攻するの?」と彼は訊ねた。



 「演劇」と僕は答えた。



 「演劇って芝居やるの?」



 「いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研究するわけさ。ラシーヌとかイヨネスコとか、シェークスビアとかね」



 シェークスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。僕だって殆んど聞いたことはない。講義要項にそう書いてあっただけだ。



 「でもとにかくそういうのが好きなんだね?」と彼は言った。



 「別に好きじゃないよ」と僕は言った。



 その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。僕はとても悪いことをしてしまったような気がした。



 「なんでも良かったんだよ、僕の場合は」と僕は説明した。「民族学だって東洋史だってなんだって良かったんだ。ただたまたま演劇だったんだ、気が向いたのが。それだけ」しかしその説明はもちろん彼を納得させられなかった。



 「わからないな」と彼は本当にわからないという顔をして言った。「ぼ、僕の場合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそうじゃないって言うし……」



 彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段だった。



 彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パーセント無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつっかえたりしながら一時間でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしまうかするまでしゃべりつづけていた。



 毎朝六時に「君が代」を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あのこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。そして服を着て洗面所に行って顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃないかという気がするくらいだ。部屋に戻ってくるとパンパンと音を立ってタオルのしわをきちんとのばしてスチームの上にかけて乾かし、歯ブラシと石鹸を棚に戻す。それからラジオをつけてラジオ体操を始める。



 僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡するから、彼が起きだしてごそごそしても、ラジオをつけて体操を始めても、まだぐっすりと眠りこんでいることもある。しかしそんなときでも、ラジオ体操が跳躍の部分にさしかかったところで必ず目を覚ますことになった。覚まさないわけにはいかなかったのだ。なにしろ彼が跳躍するたびに――それも実に高く跳躍した――その震動でベッドがどすんどすんと上下したからだ。三日間、僕は我慢した。共同生活においてはある程度の我慢は必要だと言いきかされていたからだ。しかし四日目の朝、僕はもうこれ以上は我慢できないという結論に達した。



 「悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっぱりと言った。



 「それやられると目が覚めちゃうんだ」



 「でももう六時半だよ」と彼は信じられないという顔をして言った。



 「知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはまだ寝てる時間なんだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」



「駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下の部屋は物置きだから誰からも文句はこないし」



 「じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で」



 「それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ?ラジオじゃないからさ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないんだよ」



 たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランジスタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と僕は思った。



「じゃあ歩み寄ろう」と僕は言った。「ラジオ体操をやってもかまわない。そのかわり跳躍のところだけはやめてくれよ。あれすごくうるさいから。それでいいだろ?」



 「ちょ、跳躍?」と彼はびっくりしたように訊きかえした。「跳躍ってなんだい、それ?」



 「跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ」



 「そんなのないよ」



 僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言いだしたことははっきりさせておこうと思って、僕は実際にNHKラジオ体操第一のメロディーを唄いながら床の上でぴょんぴょん跳んだ。



 「ほら、これだよ、ちゃんとあるだろう?」



 「そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった」



 「だからさ」と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。「そこの部分だけを端折ってほしいんだよ。他のところは全部我慢するから。跳躍のところだけをやめて僕をぐっすり眠らせてくれないかな」



 「駄目だよ」と彼は実にあっさりと言った。「ひとつだけ抜かすってわけにはいかないんだよ。十年も毎日毎日やってるからさ、やり始めると、む、無意識に全部やっちゃうんだ。ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来なくなっちゃう」



 僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろう?いちばん手っ取り早いのはそのいまいましいラジオを彼のいないあいだに窓から放りだしてしまうことだったが、そんなことをしたら地獄のふたをあけたような騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。突撃隊は自分のもち物を極端に大事にする男だったからだ。僕が言葉を失って空しくベッドに腰かけていると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。



 「ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ」と彼は言って、それから朝食を食べに行ってしまった。

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